聖書学と信仰者 第1章 私の聖書 あるユダヤ人の視点

信仰

この「聖書学と信仰者」はユダヤ教、カトリック、プロテスタントの聖書学者が自らの信仰と科学的に発見された聖書の現実とをどう向き合わせるのかということについて、それぞれの宗教的伝統に照らし合わせて述べているものである。
最初に述べるのはユダヤ教のマーク・ツヴィ・ブレットラー(Mark Zvi Brettler)で、デューク大学ユダヤ学部の教授。

この中で私たちがユダヤ教徒に対して持っているイメージは全くユダヤ教徒の実態とかけ離れていることが説明されている。

ユダヤ教徒と言えば、聖書の民である、と僕らは考えるけれど、彼によると(聖書のテキストそのものではなく)解釈された聖書を第一とする信仰なのだ。つまり、特別な神の言葉で書かれたパズルのようなもので、それを解読しなければならないと考えているらしい。

  • まず、大前提として、ユダヤ教における「批判的聖書学」の歴史は極めて浅い。それは20世紀半ばまでユダヤ人が大学で教えることがほとんど不可能であったことから、現代的な学問手法で聖書を研究するということがなかったためである。

正統派ユダヤ教ではトーラーは神から与えられたものであると捉えるのが圧倒的多数。


中世の傑出したラビであるモーゼ・マイモニデス(1135-1204)が13の信仰原則を打ち出して以来、トーラーを神から与えられたものであるという考え方は大きな影響を与えた。

それまでは、「トーラー」がそもそも何を指すのか?トーラーの全てが神から与えられたのか?などについて異論があった。しかし、第2神殿時代以降、徐々にトーラーが律法全体を示すこと、律法全体が神から与えられたものであるという考え方が発展してきた。

中世の傑出したラビであるモーゼ・マイモニデス(1135-1204)が13の信仰原則を打ち出した。彼以降のユダヤ教はこれに強く影響されるようになった。


第8原則「私は、現在私たちが持っているトーラー全体が、私たちの師であるモーセに与えられたものであることを、完全な信仰をもって信じる」
第9原則「私は完璧な信仰をもって、このトーラーが決して変更されないことを信じる」

しかし、実際には「モーセのトーラー」という概念は第2神殿時代になって初めて発展したものと考えられている。

ドグマとユダヤ教

ユダヤ教には、ドクマ(教義)と言えるものがない。「十戒」がどこからどこまでを指すのかは議論の余地がある。「聞け、イスラエルよ。われらの神、主は唯一の主である」という申命記6.4も多くの学者が指摘している通り、最後の単語(’ehad「一つ」)はあいまいで、不明瞭、非文法的であり、信条という慎重に策定されたものではない。また、このテキストが自己完結的なのか、後に続くテキストの序章なのかもよく分からないという点からドグマとは言えない。

古代の信仰にありがちな「信仰の条文がほとんどない、あるいは全くない、最小限の宗教である」。したがって、マイモニデスの13の信仰原則がドグマ的に発展したとはいえ、本当にドグマであるかどうかは怪しいのだ。
そして、ローマ教皇のような権威が存在するわけではないユダヤ教においては「私は~だと思う」と言えば、それを否定することもできないのだ。

ラビによる口伝律法が聖書に基づくというよりは、古代の慣習を聖書に紐づけてきたという事実。

口伝律法(ミドラーシュ)の各条文の根拠がしばしば聖書の別々の場所を指している事実は、口伝律法が聖書の記述を元に作られたのではなく、古代の慣習や法を聖書に紐づけて正当化してきたのだということを示している。
この聖書学的知見に対して猛烈に反発するユダヤ人が多い。しかし、聖書学的知見に基づいて考えても別段信仰に実際には差しさわりはない。(その起源が聖書によるのではなくとも)ラビ法はユダヤ人の歴史的経験を通して伝えられてきたのであり、民族の歴史の記憶として尊重する価値があるからである。

ユダヤとプロテスタントの伝統の違い

ユダヤ教では聖書の文字通りの真実性や歴史的な正確さには、関心がない。古代イスラエルにおいてさえ、事実そのものや歴史的な出来事が第一ではなく、物語から何を学ぶことができるかが第一だという意識があった。

古典的ラビたちが、聖書のテキストを遊び心をもって扱い、非常に広範囲にわたって創造的に書き換えたのはそのためである。

ただし、圧倒的多数を誇るキリスト教徒にユダヤ教は影響を受けている。キリスト教徒の方がユダヤ教徒よりも宗教的な考え方をしていると思われないように福音主義的(文字通りの聖書の解釈)立場を採用する動きも出始めた。

聖書を誰が書いたのか?

聖書の作者について批判的聖書学と伝承は異なる結論に達している。
哀歌について伝承はエレミア書と文体が似ていることからエレミアに由来するとしている。
一方、批判的聖書学は5人の匿名の作者によるとされている。
聖書の諸書の順番についても権威あるとされるバビロニアン・タルムードの記述とほとんどの聖書の写本の順序は一致していない。
預言書が神が預言者に語ったことを正確に記録しているかどうかについて、ユダヤの伝統は非常に緩やかである。

「預言は、預言者の個性と能力によって左右される」という考えが主流である。実際、預言者は自分が聞いた幻や言葉を、聴衆や個人的スタイルに合わせて自由に解釈できると理解されていた。

霊感

キリスト教において聖書が「霊感を受けている」という考えは極めて重要であるが、ユダヤ教では「ヨシュアが自分の名を冠した書物を書いた」というように霊感という概念を重視しない。正典性は霊感を受けたからではなく、共同体が重視しているからなのである。聖霊の概念は初期キリスト教においては非常に重要であり、新約聖書では80回以上登場するが、ラビ文学では、聖霊の概念はそれほど重要ではない。

結論

この論文を書いたブレットラーにとって聖書とは、ブレットラーが所属するコミュニティで、ブレットラー自身が聖なるものと呼ぶテキストから選択し、再評価し、解釈することで教科書にするものである。

ラビ的ユダヤ教はその解釈によってある種の聖書のテキストを置き去りにしてきた。たとえば、申命記7章と20章にある恐るべきherem(へレム)や、追放法を「廃止」している。預言者エゼキエルでさえ、律法には「良くない掟」(20:25)があることを認めている。

ユダヤ教では、聖書を常に、あるいは主として文字通りに読むべきではないという幅広いコンセンサスがある。したがって科学的進化論はユダヤ人学者にとって問題になることはなかった。

ラビのプロジェクトとは、聖書を構成の状況に適合させること、異なる聖書の伝統を調和させること、聖書を様々な方法で解釈されなければならないテキストとしてみることである。

シナゴーグで聖書の一節を唱えるとき、大学の授業で教えている本来の意味とは別の意味になっていても、聖書の解釈は時間と共に発展していくものなので全く気にならない。

過ぎ越しの祭り

ブレットラーは批判的聖書学者として60万人の男性がエジプトから脱出したと聖書の書かれている出エジプトの真実性を信じていない。また、いわゆる10の災いは、様々な資料の組み合わせなのであって、どの資料においても10の災い全てがそろっているものはなかった。

ブレットラーは「過ぎ越しの晩餐は、聖書の物語を後世のユダヤ人が再構築したものであり、その再構築は自分の人生において重要なのである」と言っている。

聖書に歴史的真実性が欠けているとしても、私にはそれは苦にならない。ユダヤ教では歴史ではなく物語を大切にしてきた。過ぎ越しの晩餐の物語は神への理解を助けるものであることに変わりはない。

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