聖書学と信仰者 信仰者は批判的聖書学とどう向き合うべきか

「批判的聖書学」というのが何なのかよく分からない人のために言うと、聖書という文献を神学的にではなく、「科学的に」読んでみようという学問です。
つまり、聖書学者はキリスト教徒とは限りません。無神論者もいれば、ユダヤ教徒もおり、イスラム教徒であろうと、仏教徒だろうと構わないわけです。

そして、聖書学が科学的な読み方であるということは「証拠を元に」読んでいくのでカトリックであろうと、プロテスタントであろうと理論的には同じ結論に達します。もちろん、学問である以上、学者によって意見は違うのですが、それはカトリックだから、プロテスタントだから、正教会だからということではなく、学者個人として意見が違うということになるのです。

しかし、ここで問題が生じるのです。聖書を丹念に見ていくと、明らかに教会の従来の教えと違う事実が判明していくのです。

例えば、福音書は「マタイによる福音書」「マルコによる福音書」「ルカによる福音書」「ヨハネによる福音書」と4つの福音書があります。この著者は教会の教えによれば、それぞれマタイ、ヨハネはイエスの弟子であった、マルコはペテロの秘書であった、ルカはパウロの弟子であった、と言われていました。
しかし、どの福音書も明らかにそうではなかったのです。時代考証をするとそれはあり得ないという結論になるのです。

他にもあります。マリアは生涯乙女であった、したがってイエスには兄弟はおらず、「イエスの兄弟」というのはイエスの「いとこ」のことであると、カトリック、正教会では教えられています。(プロテスタントはそうは思っていないようです)
しかし、丹念に聖書を調べていくとどうやらイエスには本当に兄弟がいたらしいことが分かってきました。(もちろん、きちんとした証拠に基づいて論証された結論です)
こうした聖書学の知見は、信仰のほぼ根幹にわたり揺るがすような衝撃を与えます。

僕自身はカトリック教徒なのですが、この衝撃の度合いはカトリック、プロテスタントで違うようです。どうもプロテスタントの人々のほうが大きな衝撃を受けているようです。(この問題について話し合ったことがないので、話し合えるようなプロテスタントの友人が欲しいです。ついでに僕が愛してやまない正教会の人とも話がしたい。)

だから、この本を訳したのがやはりプロテスタントの先生であったのは至極当然なのかもしれません。

この本はユダヤ、カトリック、プロテスタントに所属する3人の著名な聖書学者が共通の正典(旧約聖書)を題材に批判的学問の観点から聖書を読むと同時に信仰を掲げることは可能なのだという確信の下、ではそれをどのように遂行できるのか、遂行するべきなのかを考察するものです。
ワクワクしますね。

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