聖書学と信仰者 第3章 プロテスタンティズムと聖書批判 困難な対話への一つの視点 

信仰

福音主義プロテスタントの聖書学者ピーター・エンスは今日の「プロテスタント」を定義することのむつかしさを説明する。
その次にプロテスタントが過去に聖書批判を受け入れる際に障害になったいくつかの事柄、すなわち、ソラ・スクリプトゥラ(聖書のみ)、聖書の特性、19世紀プロテスタントのアイデンティティについて説明している。最後に聖書批判的読み方と宗教的な読み方を統合するためにアドバイスをする。

プロテスタントとは何か?

プロテスタントは対立から生まれたものであり、ローマ・カトリックが聖書に服従していないことにルターが異議を唱えたのが始まりである。この抗議の精神は、プロテスタントの様々な教派がいずれも(他より)自分たちこそ聖書に忠実であると主張していることにつながる。したがってプロテスタントの神学は多様である。
本論は多教派の中間グループに焦点を当てている。

しかし、プロテスタントの人々の聖書学が提示する事実(天地創造や、大洪水の物語は歴史ではない、出エジプトや征服物語は捏造といえないまでもゆがんだ歴史でしかない、福音書や使徒言行録が正確な歴史記述ではない)に対し、不快感を感じている。

私が念頭に置いているプロテスタントは信仰の目で聖書を読むことと、聖書批判の目で聖書を読むことの間の緊張感をある程度感じている中間的なグループである。

このようなプロテスタントの人々は宗教的にも批判的にも聖書を読むことができるのであろうか?

それは可能であり、実際、そう読まなければならないのである。

これは大変な困難を伴うことであることをあらかじめ述べなくてはならない。
なぜなら、プロテスタントは聖書私がが担いきれないほどの宗教的最高権威の役割を聖書に押し付けているからである。

19世紀の発展以来、プロテスタントは、ローマ・カトリックやユダヤ教よりも多くのものを聖書に要求してきた。

プロテスタンティズムにおける3つの障害

プロテスタントが特に批判的聖書学に強い緊張関係を感じるのは主に以下の理由による。

  1. ソラ・スクリプトゥラ(聖書のみ)
    プロテスタントの伝統の中でも最も優れたものは、ソラ・スクリプトゥラを教会を神学的に導く上での聖書の主要な(唯一のではない)役割を示すもののはずだった。
    にもかかわらず、聖書が最終的な裁定者として期待された。
    プロテスタントの要求通りに聖書が機能するためには、それが神から人間への啓示であり、したがって他のコミュニケーションとは質的に違うものであるとみなされなければならなかった。しかし、古代世界の他の文章との比較で特に特別というわけでもないことが明らかになった。
    神から与えられた聖書が教会を導くために、おおむね一貫していることを期待されていたが、聖書批判によって誤りや矛盾を指摘された。
    聖書批判が正しければ、プロテスタントの要求するように、聖書が教会の最終的権威となることはないのである。
  2. キリスト教聖書の特性
    歴史を通じてキリスト教徒は聖書を、イエスによる救いの物語として展開し、統一されたものとして読んできた。聖書は首尾一貫した全体として読まれたのである。

    ところが、聖書批判は、聖書の中の各書は全く統一された思想などなく、お互いに矛盾しており、そもそも書かれた年代もバラバラであること、その各書のメッセージもお互いに全く違うと述べるのである。皮肉なことに、新約聖書の著者自身が旧約聖書を引用するにあたって、創造的な思考(ほとんど改ざんといえるようなこと)をしているという事実も明らかになる。
  3. 19世紀のプロテスタントのアイデンティティ
    19世紀に3つの波がプロテスタントを襲った。一つ目はダーウィンの進化論である。二つ目はモーセの時代からおそらく1000年後に五書が書かれたというユリウス・ヴェルハウゼンの説、三つめはバビロニアの天地創造と洪水に関する神話が解読され、創世記とほぼそっくりだということが分かったということだった。
    聖書の歴史的価値を疑うことは、それを書いた神を攻撃することになる。プロテスタントは、不信仰への滑り台へと続く、扉がひび割れていることを感じ、それを閉める必要があった。教会側にあった聖書学者たちはキャリアの全てを捧げ、防衛にまわった。分離主義的な聖書大学や神学校が高密度に建設された。こうした最初の抵抗が今日まで続いている。
    そのため、聖書を宗教的かつ批判的に読もうという提案は、最初からある種の宣戦布告と映るのである。

前進

神の言葉であると信じられている書物が、その信仰にそぐわない作用を示すことがあるのか?
神の霊感を受けた書物が、疑問のある古代の習慣や信仰とこれほどまでに類似しているのはなぜか?
このように多くの問題を抱えた書物を、どうして宗教的な敬意をもって読むことができるだろうか?

つまり聖書はなぜ、プロテスタントの期待に沿うことができず、プロテスタントによる聖書の弁護が常に必要なのか?ということである。

プロテスタントは一般的に、聖書は書かれた時代や起こった出来事の産物であることをある程度認識している。しかし、まさにこの部分がプロテスタントにとって大問題なのである。

聖書は時に、バビロニア神話など、他の古代文化に登場する文学や宗教思想と不穏なほどそっくりなのである。

これに馴染むには、カトリックでしばしば述べられる受肉の神秘を考えることが一つの方法である。

すなわち、イエスは完全な人であると同時に完全な神である。そして同じように聖書もまた、完全に人間の産物であると同時に完全に神の書物でもあるのである。もっともこれは比喩的な意味である。

新約聖書の著者は旧約聖書をどのように捉えたか

新約聖書を学ぶ人は良く知っているように、新約聖書の著者たちはイスラエルの物語と福音をこのように完全に一致させるために、いくつかの明確な自由を持っていた(つまり、改ざんした)。

もし聖書が本当に教会の権威あるガイドであるならば、なぜ新約聖書の著者たちはこれほどまでに自由に旧約聖書を使用しているのか?(つまり、改ざんしているのか?)なぜ新約聖書の著者たちは、プロテスタントにおける聖書のあるべき姿についての信念を共有してはいないのか?(つまり、聖書を改ざんなどとんでもないとプロテスタントは思っているのに、当の聖書の著者たちは平気で改ざんしているのはなぜか?)

しかし、この「改ざん」は初期キリスト教徒たちがキリスト教の正しさを証明するのに躍起になって神の言葉を捻じ曲げたというものでもないのである。

ユダヤ人の聖書解釈の方法は、既に当時からして何世紀にもわたって創造性に富んでいた。「聖書は謎」であり、それを解き明かすには微妙な工夫が必要と考えられていた。

キリスト教徒以外のユダヤ人グループ(例えば死海写本で有名なクムラン共同体)もまた、現在の状況を理解するために聖書を読んだ。必要性に迫られ、聖書を解釈する際に柔軟な姿勢が求められていた。聖書学的な観点から見れば、状況は過去と当時は全く違っている状況に対処しなければならなかったからである。このような自由な解釈はキリスト教徒の発明ではなく、ユダヤの伝統の一部であった。

というのも、ヘブライ語聖書は土地を確保し、維持することが最も重要であると仮定している。イスラエルに起こるべき全ての良いことは王と祭儀制度がしっかりと確立された土地にあることを前提にしている。

しかし、ユダヤ教はそれに当てはまらなかった。紀元70年にローマ人によって神殿が破壊されて以降、ヘブライ語聖書が想定していなかった状況下で「聖書の民」になることを求められたユダヤ人は創造的な方法で書物の伝統に取り組んだ。それがバビロニア・タルムードである。つまりユダヤ教とはもはや聖書が前提とする土地と神殿を失ってなお、(タルムードによってヘブライ語聖書を再解釈することで)ユダヤの物語に連なり続けようとするユダヤ人の反応だったのである。

新約聖書とはキリスト教におけるタルムードのようなものである。キリスト教徒はヘブライ語聖書をどのように読むのか?という点について「イエスによる完成」という観点から読み返した。

最初は、イエスこそメシアであり、そのメシアとは軍事的な人物であると期待されていた。しかし、イエスは刑死した。

ヘブライ語聖書の示す軍事的メシア象が不可能になった時、キリスト教徒は「新約聖書」によってもう一度ヘブライ語聖書そのものを再解釈したのである。イエスは殺された。しかし、それで終わりではなかったのだ。イエスは復活したのだ。そして、その観点からヘブライ語聖書は再解釈された。

イスラエルの物語の意味を改めて考えるきっかけとなった出来事は、ユダヤ教徒とキリスト教徒で異なっていたが、状況の変化の中で、「どのようにしてイスラエルの物語の一部であり続けることができるのか?」という問いは同じであった。そして新約聖書はキリストに従う者たちがその問いにどのように答えたのかを一貫して証言している。

プロテスタントにとっての課題は、聖書がどのようにふるまうべきかを決めるのではなく、実際にどのようにふるまうかを考察し、それを反映するように信仰を再調整することである。

聖書が神の言葉なら、わずかな誤りもないはず 旧約聖書と歴史の問題

聖書が神の言葉であるならば、少なくとも歴史の記述が正確である、あるいは僅かなりとも歴史的誤りは絶対にないはずである。

しかし、神の言葉と歴史の正確さを同一視することは、「聖書がどうあるべきか」という仮定であって、「聖書がなんであるかを評価するもの」ではない。

旧約聖書の歴史問題は広範囲にわたっており、実際の歴史は旧約聖書の記述どおりではないという事は疑いの余地がない。

考古学的証拠によれば、カナンの征服はヨシュア記に書かれているよりもはるかに複雑である。エリコはヨシュア記6章によるとヨシュアによって破壊されたが、考古学的遺跡によるとヨシュア記の時代には、破壊も占領もされていなかった。

聖書の考古学者たちは「イスラエリコがカナン人に押し掛けた大規模集団ではなく、実のところイスラエルの正体は「カナン人」であり、(エジプトから出てきたかもしれない)少数の外部集団の影響を受けてイスラエルとして形成されたのではないか?と結論付けている。これを裏付ける数々の証拠も見つかっている。

出エジプト記は当時の慣用句を用いて、イスラエルの輝かしい始まりと、彼らが仕える神の姿を描いた神学的な文章である。

プロテスタントにとって問題の核心に迫る問いは「何が起こったのか」ではなく「神の言葉の歴史的特徴は何か」という事である。

現代の出エジプト記の研究は、プロテスタント信仰と聖書批判の間の総合的なアプローチを必要とする、旧約聖書の歴史的特徴に関する重要かつ避けれない問題をプロテスタントに突き付けた。

プロテスタント信仰者 ピーターエンスの視点

かつて出エジプト記17章と民数記20章に記されている、イスラエルの荒野での放浪中に岩から水が湧き出たという奇跡のエピソードを扱う授業に出た。これは現代の聖書批評家に対し、古代の解釈者がどのようにその物語を扱ったかということを見ていた。

イスラエルが砂漠をさまよっている間、ただ2回だけ岩からの水が言及されていただけである。

それに対し、紀元後1-2世紀の初期ユダヤ教の資料の中に、この2つの岩は同じものであり、岩は40年間砂漠を転がってイスラエル人と一緒のに移動し続けていたと書いたものがあった。

私は笑ってしまった。

その時、授業の講師が言った。「1コリント10:4を見てごらん」

これが人生を変えることになった。

パウロはイスラエル人を支えた砂漠の岩とキリストを同一視していた。

「…彼らに離れずについてきた霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです」

パウロは砂漠で岩で動くという解釈を受け入れていた。

神の霊感を受けたパウロが、岩が砂漠を転がりながら移動していたという空想的で愚かなことを躊躇いもなしに語っている。繰り返すが、旧約聖書には「動く井戸」などとは全く書かれていない。

「誤りなく、霊感を受けた聖書」という私の聖書観は全く機能していなかったのである。

以降、私には3つの選択肢があることが分かった。

  1. 聖書が誤りを含んでいるという事実をすべて無視する。
  2. パウロが言っていることを、彼は本当は違うことを言いたかったのだと示すために自らのキャリアを捧げる。
  3. 聖書が誤りを含んでいるという事実を受け入れ、信仰と(誤りを指摘する)批判的学問とを対話させるための大変な作業を行うことに専念する。

聖書はキリスト教信仰の中心ではない。キリスト教の中心は神である。聖書は証しするものであって、神そのものと混同してはいけない。

解釈上の問題に直面しても、福音が危機に瀕しているわけではないという認識を持つことで、宗教的な聖書の読み方と批判的な聖書の読み方の間の実りある対話を促すことができる。

もちろん批判的な聖書学を学ぶことに恐怖が付きまとうことを認める。究極的に言って間違っているのではないか?という恐れはプロテスタントの伝統において頻繁にみられる。

慣れ親しんだ神学や、教会の教えは間違っているのではないかという恐怖である。

聖書批判は恐怖を引き起こすものであり、プロテスタントは聖書批判に直面しても恐怖が支配しないような精神的な環境をどのように作り上げるかという課題に取り組まなければならないだろう。

しかし、不安定な信仰は、成熟した信仰なのである。

ユダヤ教 ブレットラーの応答

エンス教授の論文は、私の心に深く響いた。

しかし、ユダヤ教の批判的聖書の読み方と、プロテスタントの批判的読み方には明確で決定的な違いがあることに気付くであろう。

エンスは「プロテスタントでは、聖書は最高の宗教的権威の役割を押し付けられている」と指摘している。しかし、ユダヤ教ではこのようなことはない。ユダヤ人にとっては、解釈されたトーラー(聖書全体ではなく)が最高に重要なのである。しかし、唯一の権威ある解釈は存在しない。それは聖書の意味の多元性に関するラビの中心原則に反するのである。

プロテスタントの期待「聖書は一般的に明確で一貫しているべき」という期待は、ほとんどのユダヤ教の聖書解釈とは異なる。ラビ的見解によれば、聖書は「説明されるために」あるのである。

「聖書が究極的には首尾一貫した壮大な物語であり、クライマックスを持つ唯一の物語を語っている」というプロテスタントの信仰は、古典的ユダヤ教聖書学でも、現代ユダヤ聖書学にも見られない考え方である。

「出エジプト記は、当時の慣用句を用いて、イスラエルの輝かしい始まりと、彼らが仕える神の姿を描いた神学的な文章である」というエンスの視点はプロテスタントよりも多くのユダヤ人の方が同意すると思う。

旧約聖書と新約聖書を合わせた聖書全体の商店が「キリストの受肉というキリスト教信仰の中心的な神秘」であるという点ではユダヤ教は異なる。

聖書の内容と順番についても、カトリック、プロテスタント、ユダヤでそれぞれ違ってる。それは異なる宗教コミュニティが「聖書の最も重要だと考える部分がそれぞれ違う」ということなのである。

ハリントンは「タルムードも新約聖書も、正典に対する姿勢が似ているということである。それはパラダイムを変えるような突然の出来事を踏まえて読まれるべきだという事である」と述べた。これは私たち(カトリック、プロテスタント、ユダヤ)全員が取り組もうとしている問題であると思う。

過去と現在の両方を正当に評価する形で、(エンスの言う「プロテスタントの宗教的な聖典の読み方と批判的な読み方の間の真の総合」)いかに建設的に結びつけることができるかという事である。

なぜなら「聖書に関する歴史的疑問は、信仰を損なうことを目的とした敵対的な学者たちの陰謀による、根拠のない押し付けではなく、慎重な歴史的研究と、聖書本文の精読によって提起される正当な問題に由来する」からである。

「不安定な信仰は、成熟した信仰である」ユダヤにはこのような言葉はない。しかし、不安定な信仰は、それにもかかわらず信仰なのである。

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