ガリラヤ伝道開始 マルコ1:14
マルコ 1:14 | マタイ 4:12ー17 | ルカ 4:14-15 |
さて、ヨハネが(獄に)引き渡されたのち、イエスはガリラヤにやって来た。(そして)神の福音を宣べ伝えながら言うのであった。 「(この)時は満ちた、そして神の王国は近づいた。回心せよ、そして福音の中で信(頼)せよ。 | さて、彼はヨハネが獄に引き渡されたと聞いて、ガリラヤへ去っていった。そしてナザラを棄て、ゼブルンとナフタリの地域である海沿いの市カファルナウムにやって来て居を定めた。これは預言者イザヤを通して言われたことが満たされるためであった、すなわち、 「ゼブルンの地とナフタリの地、 海に向かう(地)、ヨルダン(川)の向こう岸、 異邦人のガリラヤよ。 闇に座する(この)民は 大いなる光を見た。 死の地すなわち(死の)陰に座する者たち、 その者たちに光が昇った」。 その時からイエスは宣べ伝え始め、また言い(始め)た。 「回心せよ。天の王国が近づいたから」。 | さて、イエスは、霊の力のうちにガリラヤに戻ったが、彼についての評判は、周辺の地一帯に広がった。また彼自身、彼らの諸会堂において、すべての人に賛意されながら、教えるのであった。 |
マルコが記録している「この時は満ちた、そして神の王国は近づいた。」という緊迫したメッセージはいつの間にかマタイでは和らげられて「時は満ちた」という言葉が削られており、、ルカではさらに「神の王国は近づいた」という言葉も削られている。
聖書というのは一点、一画も正確にしなければならないという感覚はどうもないようである。まあ、大体一緒ならOKでしょ?っていう感じなのだろう。古代人らしくて良いのだが、私たちが「神の言葉は一点、一画も変えてはならない」と感じているのは、古代の宗教的感覚からは大分外れているのだ。
- マルコ福音書が西暦70年ごろ(エルサレム崩壊前後)で、「いよいよ世界の終わりが始まった」という緊張感に満ちているのに対し、さらにのち西暦80年から85年ごろに書かれたマタイ、同じ頃に書かれたルカでは「いつまで待っても来ない神の国」について、信者が余計な期待を持たないように配慮されている。
- 私たちキリスト教徒は人を許すことがキリストの教えだと思っていることが多い。しかし、マルコ福音書には「回心せよ」。とイエスは宣べている。つまり、イエスの神は回心しない者を罰するのだ。
ここに私たちは「許し」というものを無条件に与えるのかどうかという混乱を解決できる。
イエスは「反省もせず、悪いとも思っていない者を『許せ』」とは言っていないのだ。
むしろ、それは悪を野放しにするだけだろう。
回心しない者を罰することは信仰に反することではないのだと安心できる。 - それにしても預言者イザヤの預言によれば、「死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝いた」というが、どこに光があるのだ?ガザを見よ。無辜の人々が、無残に殺されている。
イエスはいったい何を救ったというのだ?という問いを感じる。罪からの救いに意味があるのか?暖かい神の愛は逃げまどい、一切れのパンに群がるあの、苦しめる人々を前に何か意味があるのだろうか?
最初期の福音書(マルコの福音書)はイエスの生の声を記録している。忖度なしにイエスはすぐにも「神の国がやってくる」と思っていたのだ。
あれから2000年。
救いなど、どこにもないのだ。イエスは、古代人として精一杯生きたのだろう。でも、神の国の到来が近いと信じたイエスは間違っていたのだ。
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