聖書学と信仰者 第2章 聖書を批判的かつ宗教的に読むために カトリックの視点

信仰

カトリック教徒がどのように聖書を読むべきかについては、最近の公式のカトリックの教えがある、カトリックの伝統は信仰と理性の統合を強調する。

世界中のカトリックの99.9%は実際にはこの教え(批判的聖書学的な読み方と宗教的な読み方の統合についての教え)を知らない。カトリックの教えは宗教的に読むことに主眼を置いているが、聖書解釈においては聖書批判や歴史批判的方法が不可欠であることを繰り返し主張している。

聖書解釈に関する最近の公式文書は以下のとおりである。

  • 第二バチカン公会議が発表した「神の啓示に関わる教義的憲章(1965)」(Dei Verbum)
  • 教皇庁聖書委員会「教会における聖書解釈(1993)」「キリスト教聖書におけるユダヤ人とその正典(2002)」
  • ベネディクト16世「主の言葉(2010)」(Verbum Domini)

カトリックの聖書に対する考え方

カトリックは「本」の宗教ではない。カトリックは聖書をイエスという一人の人間の証として捉えている。したがってカトリックはむしろ人」の宗教である。

カトリックでは聖書と教会は最初からある種の共生関係にあったと考えている。すなわち、聖書は教会の書物であり、教会は聖書に導かれていると考えている。

カトリックは聖書を唯一の神の啓示の源とは考えていない。Dei Verbumでは「聖なる伝統、聖書、そして教会の教導機関はたがいに結び付き、結合しているので、一方が他方無しでは成り立たないが、すべてが一緒になって、そしてそれぞれが独自の方法で、唯一の聖霊の働きのもとに、魂の救いに効果的に貢献する」と述べている。

今日、ほとんどのカトリック神学者は、聖書の無謬性を限定的にとらえている。すなわち「救いに関わることだけが無謬なのである(つまり書かれている歴史は本当の歴史とは限らない。書かれたことは事実とは限らない。)」ということである。これが今日のほとんどのカトリック教徒の見解であることは間違いない。

聖書が何よりもまず明らかにするのは、神の人格と私たちに対する神の意志である。したがって、聖書は命令、戒め、預言の書ではありえない。むしろ天地の創造主、イスラエルと契約関係を結ばれた方、神の言葉であるイエスによって示された、愛に満ちた父を知るための手段なのである。

歴史批判的方法の問題点

  • 文学的・歴史的問題点

第1の問題は文字通りの意味と古代の著者が意図したものを同一視することが、文学に対する時代遅れのアプローチだと考えている人がいるということである。つまり、批判的方法は聖書を熟読し、「〇〇と書いてあるから、…という意味なのだ」としばしば主張する。文を見ればその通りなのだが、著者は実際にはそういうつもりではない場合もあろうという事なのである。

第2の問題は聖書の背景となるあまりにも広範囲であり、そのすべてに精通している学者はほとんどいない、ということである。旧約聖書ではアッカド語、北西セム語(ウガリット語)、カナン語、エジプト語などが背景にある。新約聖書では旧約聖書、パレスチナのユダヤ教、ヘレニズムのユダヤ教、ラビ的ユダヤ教、ギリシア・ローマの古典文学、ギリシア・ローマの哲学、グノーシス主義などがある。

第3の問題は学問としての歴史の性質に関わるものである。「学者が言っている」という理由で、聖書に関する仮説や憶測が既成事実として受け入れられることはしばしばある。歴史学者の作業には探偵のように本当に起こったことを見極めることが含まれる。しかし、「探偵」には「勘」を頼りにすることも少なくないのである。

  • 哲学的・神学的前提条件の問題

トレルチが1900年に「神学における歴史的および教義的方法」という論文で示した歴史批判の三大原則がある。カトリック神学の伝統が歴史批判に対して最も深刻な問題を抱えているのはこの部分である。

トレルチの原則の第一は批判そのものである。歴史は確率的にしか達成しない。したがって宗教的伝統は歴史的批判にさらされなくればならない。問題は歴史的真理があまりにも偶発的であるために、歴史的研究によって到達することはできないという事である。

トレルチの第二の原則は類推である。聖書の過去を含む過去を扱う際には現在の経験や出来事が確立の基準となる。すると聖書に登場する一回限りの超自然現象は事実上除外されてしまう。

トレルチの第三の原則は相関関係である。ある現象が変化すると、それにつながる原因やそれがもたらす結果も変化しなければならないというものである。すると、神的原因による原因は認められなくなる、すなわち歴史に介入する神の働きを主張できなくなるのである。

カトリックの観点からはこの原則は議論の余地がある。この原則を厳格に適用することは、カトリックの批判的聖書学を受け入れようとする積極的な理解とは相いれることはできない。

教皇庁は1993年教皇庁聖書委員会の「教会における聖書の解釈」で詳細に説明している角度からの批判的聖書学の受容なのであって、トレルチやスピノザ的な前提に立つ批判的聖書学はカトリックの伝統とは異質であり、相容れず、拒絶することになる。

カトリックにとっての旧約聖書

死海写本を生み出したグループと同様に、キリスト教徒たちはヘブライ語聖書を権威あるものと考えていたが、旧約聖書の一部のテキストは不明瞭で、預言の多くは「実現していない」と感じていた。そのカギがキリスト教徒の場合、イエスなのである。

このような背景からカトリックの旧約聖書に対する主要なアプローチは「約束から成就へ」「影から現実へ」であった。この見方の優位性は第二バチカン公会議公文書Dei Verbum14-16でも確認されている。一方でDei Verbumは旧約聖書の中に「神についての高尚な教えと人間生活に関する健全な知恵、そして素晴らしい祈りの宝庫である」という評価も与えている。

旧約聖書に関する、より積極的でバランスの取れた見方は教皇庁聖書委員会は「キリスト教聖書におけるユダヤ人とその正典」(2002)に明示されることになる。そこで新約聖書の証としての旧約聖書という従来の見方だけでなく旧約聖書そのものに神の言葉として大きな価値を持っていることを主張した。

正典の霊的意味

歴史批判的方法は「不可欠」であると主張する一方で、カトリックの公式見解では、それが完全に適切なものではないと主張している。著者の意図と元の歴史的文脈における意味を考えると同時に、霊的意味を考慮しなければならないとされている。つまり、聖書のテキストが今日、個人やグループにとってどういうメッセージを伝えているかという事である。なぜなら、神の言葉は生きていて活動しているという前提があるからである。

中世においては「聖書の4つの意味」というアプローチが生まれ、現在に至るまで適用されている。この手法は恣意性を含み、プロテスタントの改革派からは強く批判された。

その4つとは、

  1. 文字通りの意味
  2. 寓意的な意味(キリストに関連するもの)
  3. 道徳的な意味(正しい行動に関連するもの)
  4. 神秘的な意味(終末論に関連するもの)

である。

宗教的に(つまり聖書のメッセージを現在の生活に生かす)読む方法について、カトリック教会はレクチオ・ディヴィーナ(霊的読書)と呼ばれるものを発展させてきた。これは修道院に根差したアプローチであり、いつくかのヴァリエーションがある。もっとも有名なものの一つにイエズス会創設者イグナチオ・デ・ロヨラのイグナチオ観想法である。

霊的解釈に関する理解は教皇庁聖書委員会「教会における聖書の解釈」(1993)によって明らかになった。霊的解釈は、「文字通りの解釈と異なるものであってはならない」とされる。霊的意味とは「キリストの受難の秘儀とそこから流れ出る新しい命の文脈の中で読まれたときに、聖書のテキストによって表現される意味」であると規定した。

これは、「約束と成就」「影から現実へ」という方法により、実質上、キリスト論的に聖書を読むという事になる。

聖書を宗教的に読むことの問題点

  1. ほとんどのカトリック教徒は聖書、特に旧約聖書にあまり精通していない。多くの司祭、助祭についても同じである。
  2. カトリック信者が旧約聖書の「約束と成就」アプローチに過度に依存している。旧約聖書を単にメシアの到来についての預言の書としてしか見ていない。

したがって、聖書の宗教的読み方においても歴史批判的方法の皇帝的な価値をよりよく理解できる。聖書を調査する客観的な方法として理解されており、一方で古代の人々と私たちには「共通の人間性」によってつながっていると感じているのである。

結論

聖書を批判的かつ宗教的に読もうとする人にとって、聖書解釈に関する最近のローマカトリックの教えはよい枠組みを提供できる。

その教えは歴史批判的方法論の多くの重要な要素を受け入れることによって、聖書のテキストを本来の歴史的文脈の中に置き、聖書の著者が本来の読者に何を言おうとしていたかをできる限り把握することを勧めている。

プロテスタント学者ピーターエンスの応答

カトリックの伝統における聖書の宗教的な読み方についてハリントンは2つの中心的な例を挙げている。

  • 聖書の究極的なキリスト中心主義。宗教的な読み方と批判的な読み方を対話させることはカトリックの解釈学的・神学的伝統の一部である。
  • 古代から行われてきたレクチオ・ディヴィーナという観想法である。宗教改革者たちが、命題となる神学的知識の源として聖書を重視していたため、プロテスタントでは観想的な読書はあまり支持されなかった。

プロテスタントの傾向として、信仰を正確に知的に表現することに誇りをもっていることは、教義の表現が分裂の基礎となっているプロテスタントの歴史に現れている。

キリスト教の知的活動は軽視できないが、知的なかかとが土に埋まってしまうと、聖書批判との真剣な対話が必要とするような知的な柔軟性は起こりにくくなる。

プロテスタント聖書学者としてプロテスタントの人たちがローマ・カトリックの聖書解釈に組み込まれている神学的、批判的、キリスト教的な感性に折り合いをつけ、新しい考え方を受け入れることを期待する。

この気持ちを背景にハリントンの議論を3点において拡張したい。

  1. 約束・成就のパターン この過去と現在を融合させようとするユダヤ教においてしばしば見られる聖書の扱い方をミドラーシュという。したがって、「約束・成就」はユダヤ教的な読み方にしっかりと根ざしているのであるということ。旧約聖書が約束したものを、イエスが成就したという考え方はユダヤ教徒分断したわけではなかった古代キリスト教では驚くようなことではなかったという点を確認したい。
  2. 正典の霊的意味 聖書を神学的・歴史的な情報源としてではなく、神との交わりの手段として読むことは、教会の長年の伝統である。
    しかし、問題は霊的な読み方と批評的な読み方がどのように関連しているのか?あるいは全く関連していないのかということである。
    批判的読解がそう簡単には霊的読解と和解してくれないのではないか?
    なぜなら、この2つのアプローチはそれぞれ異なるものを求め、異なる理由で設計されているからだ。
    批判的な読み方は歴史的文脈に根差していない読み方の完全性に疑問を投げかけるのである。
    私は聖書の(カトリック教会で長年大切にされてきた)霊的な読み方はキリスト教の中核的な道であると考えている。
    しかし聖書批判は聖書を読むための説得力のあるアプローチを導入した。
    これは定義上、文学的または歴史的文脈に注意を払わない読み方を排除するものである。
    すなわち批判的聖書学は霊的な読み方の正当性を疑問視しているのである。
  3. 聖書の中とは以後と前にある世界を区別する。
    ハリントンは聖書を読むことに関わる三つの世界の関係について述べている。
    ハリントンはテキストの世界とは、言語学的・文学的な問題、つまり文脈におけるテキストの意味に焦点を当てる、つまり聖書のテキスト全体のことであるが、これはテキストの背後にある世界とは区別される。
    ハリントンは霊的に破壊的な仮定が解釈を決定しないよう注意しなければならないと警告している。(奇跡は起きない、人は死から復活しない)など。

私が言いたいことは次のようである。ローマ・カトリックの聖書へのアプローチの中で、キリストを中心とした霊的な読み方が得意とする分野で対話を続ける必要がある。それらの読み方と聖書批判が相互に利益をもたらすために対話をすることが可能であり、また、そうしなければならないということである。

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