民主主義は国民国家を前提にしているが、民主主義が保守主義、あるいは外国人嫌いとリンクしていることがどうも理解できなかった。エマニュエル・トッドはアダム・ファーガソンの文章を引用して国民国家の団結が外国などとの緊張関係に対する身内意識としての社会的連帯が国民国家の団結に必要であることを述べている。
スコットランドの啓蒙学者、アダム・ファーガソンが著作『市民社会史論』(1767年)で述べたように、人間の集団はそれ自体としては存在せず、常に他の同等の人間集団に対して存在する。…同国人や同郷という肩書きは外国人や異民族と対立していなければ…廃れてしまい、意味をなさなくなる。私たちは個人についてはその個人の資質を愛するものだ。しかし、人類の分断における一つの集団の構成員として、国を愛するのだ。
…国家の敵対関係と戦争失くしては、市民社会そのものが目的あるいはその形を見出すことはむつかしかっただろう。…対立する人々への敵対心を認めずに、多様な人々の間に連帯を見出そうとすることには意味がない。もしも突然にして、外国によって喚起される対抗意識が消滅したならば、国内での社会的な結びつきも断ち切られたり、あるいは弱められたりすることになり、結果として国民的な活動や国民的な道徳の発露の場も閉ざされることになるだろう。
そして、彼はロシアの強みが
一方でロシアの強みは主権と国家の平等性という観点から物事を考えているという点にある。ロシアは、敵対する勢力の存在を考慮することで、社会的結束を確保できているのだ。
と述べている。
これって、ソシュールが「言語とは周りの世界から切り取られる中で生じる相対的なものである。」と述べたことの具体例化もしれない。
「われわれ」という言葉は「あいつら」という言葉の裏返しなのだ。だから、「あいつら」というものが存在しなければ「われわれ」という仲間意識は生まれないのだ。
割と高学歴な人が障壁のない「競争」や「自由貿易」、場合によっては「人類愛」を唱えることが多いが、案外それは内側での連帯感の喪失と民主主義の破壊につながっているのかもしれない。
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